桐島聡容疑者「どうしよう。こんなことになるなんて」 連続企業爆破事件の仲間に見せた動揺 逃げ続けた理由は…

2024-08-29 HaiPress

(2024年8月29日午後4時黒川芳正受刑者から29日に新たな手紙が届いたことを受けて、加筆・修正しました。見出しも公開当初のものから修正しました)

1974~75年に過激派「東アジア反日武装戦線」が起こし、多数の死傷者を出した連続企業爆破事件から半世紀。メンバーの1人で、無期囚として服役中の黒川芳正受刑者(76)が東京新聞の書面での取材に応じた。一連の事件後、49年間逃亡生活を続けた末、今年1月に名乗り出て病死し、一部の事件で書類送検、不起訴となった桐島聡容疑者=死亡時70歳=について、当時の発言などを踏まえて「贖罪(しょくざい)行為の逃避行だった」と独自の見方を示した。30日で1件目の三菱重工ビル爆破事件から50年となる。(小倉貞俊)

◆自分の事件で重傷者を出したこと「最大の痛恨事」

黒川受刑者は一連の事件のうち、自らが75年に起こした間組江戸川作業所爆破事件で重傷者を出したことに「最大の痛恨事」と言及。共に活動していた桐島容疑者については「どうしよう、こんなことになるなんて」と動揺していたと指摘。自責の念にかられた上で、「服役以上に過酷な逃亡生活を選んだのでは」などと推測した。

黒川芳正受刑者からの手紙

黒川受刑者は東京都立大に在学中、左翼活動に傾倒。日雇い労働をしながら労働運動に携わる中、のちに三菱重工爆破事件の中心人物となる大道寺将司元死刑囚(2017年死亡)と知り合い、1974年、東アジア反日武装戦線に参加。自らは三菱重工ビル爆破事件には関わらず、桐島容疑者ら2人を誘い、3グループの1つとなる「抗日パルチザン義勇軍さそり」を結成。複数の爆破事件に関わった。

警視庁公安部が75年に逮捕、87年に殺人未遂罪などで無期懲役が確定し、宮城刑務所に服役中。取材は複数回の手紙のやりとりで行った。

連続企業爆破事件過激派の東アジア反日武装戦線が1974〜75年、反帝国主義や反植民地主義を掲げ、海外進出するゼネコン・商社に爆弾を仕掛けた12件の事件。大道寺将司元死刑囚らのグループ「狼」が起こした三菱重工爆破事件では8人が死亡、376人が重軽傷を負った。「大地の牙」グループは三井物産や大成建設などを狙った。警視庁が逮捕したうち、佐々木規夫、大道寺あや子の両容疑者は「超法規的措置」で釈放されて国外逃亡。今も国際手配されている。

◇◇

◆「桐島に爆弾の仕掛け場所を指示した私に責任」

—「さそり」の活動方針は

1974年8月30日、夜間照明の中、三菱重工ビルの前で行われる現場検証=東京都千代田区丸の内で

大道寺のグループ「狼(おおかみ)」による1件目の三菱重工爆破事件は、死傷者を出すことを意図していなかったのに、作戦のずさんさから8人の犠牲者を出すという失敗だった。自分は「狼」には入らず、世界で起きていた「都市ゲリラ戦方式」の革命運動が国内で展開できるか試みるため、「さそり」を結成した。人的被害を出さないよう、夜間に人のいない時を狙って爆発させる作戦を原則にしていた。

—ただ「さそり」が起こした爆破事件でも、作業員1人が重傷を負った(間組江戸川作業所爆破事件)。悔悟の思いは

負傷者を出してしまったことは最大の痛恨事。不十分な事前調査のまま、桐島に爆弾の仕掛け場所を指示した私に責任がある。

—桐島容疑者との関わりは

労働運動の中で74年6月頃に知り合った。真面目で人当たりが良く、心優しい男で、弟のように思っていた。昭和歌謡が好きで、酒盛りをした際、ほろ酔いでちあきなおみの「喝采」を歌っていたこともあった。

◆「自責…服役以上に過酷な逃亡生活を選んだのでは」

—事件後、桐島容疑者は、神奈川県の工務店に偽名で住み込み、働くなどして潜伏し、今年1月25日、入院中の病院で名前を名乗り出た(4日後に死亡)。警視庁公安部の聴取で「後悔しているか」と問われ「はい」と答えたとされる。なぜ逃げ続けたと思うか

桐島聡容疑者=警視庁ホームページから㊧、約10年前の桐島聡容疑者とみられる人物(知人提供)㊨

爆弾の設置役だった桐島は当時、負傷者が出たとの報道に接し「まいったな、どうしよう。こんなことになるなんて」と話していた。ショックを受けて動揺し、自責の念にかられていたようだ。私の「(活動を)続けよう」との説得を受け容れつつも、その時の表情や雰囲気で「心底からは納得していないな」と感じた。

だから桐島は被害者への贖罪(しょくざい)として、服役以上に過酷な、死ぬ日までの逃亡生活を選んだのではないか。桐島にも日雇い労働の経験があったこと、人当たりの良さと、自制心の強さがそれを成功させたと思う。

—最後に名乗り出た理由をどう考える

贖罪行為としての逃避行の終了通知であり、自身の存在を歴史に残すためだったのではないか。桐島が名乗り出たことは驚きで、自分も改めて当時の行為を深く思索し、書き残そうとしている。もし当時、非暴力の手段で戦争という究極の暴力をなくせる方法が分かっていれば、あの(事件という)選択には至っていなかった。

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