「悲しい時はここに来て祈っていた」 ハンセン病療養所の教会、70年の歴史に幕

2024-07-06 HaiPress

東村山市の国立ハンセン病療養所多磨全生(ぜんしょう)園で、園内にある教会の一つが閉鎖された。長く続いた強制隔離の時代から、多くの入所者が祈りをささげてきた心のよりどころは、信者の高齢化や減少で70年を超える歴史に幕を下ろした。

閉鎖された聖フランシス・聖エリザベツ礼拝堂で、思い出を振り返る田辺幸子さん=東村山市の多磨全生園で(由木直子撮影)

多磨全生園らい菌による感染症・ハンセン病の患者を収容するため、1909(明治42)年に公立療養所全生病院として発足。41年に国立療養所多磨全生園となった。患者を強制隔離する国の政策で、多い時で1500人以上が収容された。強制隔離を定めた「らい予防法」は96年に廃止され、2001年、隔離政策を違憲とした熊本地裁判決が、国の控訴断念で確定した。園内で子どもたちが学んだ全生学園は08年に解体され、強制隔離の象徴だったヒイラギの垣根は20年にほとんどが撤去された。

◆「昔はいっぱいになったんだけどね。みんな、亡くなった」

入所者で教会の信者の田辺幸子さん(91、仮名)が、木の長いすにゆっくりと腰を下ろす。いつもと同じ、後ろから2列目の左側。座面の緑色の生地が、わずかにあせている。しんと静まり返った礼拝堂を見渡した。「昔はここがいっぱいになったんだけどね。みんな、亡くなった」

多磨全生園にある日本聖公会聖フランシス・聖エリザベツ礼拝堂=東村山市で(木戸佑撮影)

園内のキリスト教「日本聖公会聖フランシス・聖エリザベツ礼拝堂」が5月末に閉鎖された。1950年ごろに造られ、62年に現在の形に建て直された。これまでの信者は、記録に残るだけで92人。園を退所した人を加えると100人を超えるとみられる。

◆故郷に帰れず、家族と離れ、子どもを持てず

「つらい時、悲しい時は教会に来てずっと祈っていました」と語る田辺さん。10歳でハンセン病を発症した。両親から「東京の親戚の所に遊びに行く」とだけ聞かされ、そのまま全生園に一人残された。「悲しくて、何日も泣いた」。同じ少年少女舎で暮らす子に誘われ、聖公会に入信。園内で洗礼を受けた。

多磨全生園にある日本聖公会聖フランシス・聖エリザベツ礼拝堂の内部=東村山市で(木戸佑撮影)

当時、入所者たちは国の強制隔離政策の下、故郷に帰れず、家族と離れた生活を強いられた。子どもを持てず、妊娠すれば堕胎させられた。

田辺さんも幼い頃から外の世界を夢見ることを許されず、園内で医療用のガーゼを伸ばす作業などを続けた。外に出られないまま亡くなる仲間を見送った。社会の差別や偏見から、引き取られた遺骨がそのまま電車に放置されたと聞いた。

◆「ちゃんと終わりにしよう」と閉鎖を申し出た

全生園に来て約80年。入所者の高齢化と共に教会の信者は減り、最後は田辺さんを含めて6人になった。教会に来られない人が多く、日曜のミサに訪れるのは田辺さん1人。「まだ体が動くうちに、ちゃんと終わりにしよう」と閉鎖を申し出た。決定を聞き、涙を流す信者もいたという。

いつも座っていた後ろから2列目の席で、教会での思い出を振り返る田辺幸子さん=東村山市の多磨全生園で(由木直子撮影)

ハンセン病療養所での宗教には、入所者を救済する側面がある一方、強制隔離という国の誤った政策を補完し、差別や偏見を助長してきた負の一面もある。

◆差別と偏見の歴史をどう伝えていくのか

96年まで続いた強制隔離政策の下では「一度入所したら死ぬまで出られない」とされ、入所時には将来の葬儀のため、宗教を聞かれることが通例だった。国立ハンセン病資料館(同市)の大高俊一郎学芸員は、療養所での宗教の役割について「外に出られない入所者の不安や不満を和らげることで『円滑な隔離生活』を可能にした」と指摘する。

全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)によると、全国13の国立療養所に暮らす元患者は、5月末時点で710人。この1年で約90人減り、平均年齢は88.4歳になった。新たに発症する可能性がほぼない国内では近い将来、元患者がいなくなる。当事者がいない中で、差別と偏見の歴史をどう伝えていくのか。閉鎖後の教会の建物は国が所有し、今後の活用方法は決まっていない。

田辺さんは今も毎朝、亡くなっていった入所者を悼み、自室で祈りをささげる。

文・岡本太/写真・由木直子、木戸佑

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